久しぶりすぎて、一周回って新鮮な気持ちの小噺でございます。
そして「七夕逃しました感」満載でお送りいたします。そこは心機一転すべきだろていう。
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揺れるあけびの葉先から、大きな雫が勢い良く零れ落ちる。
枝葉は反動で勢い良く上下に振れたが、段々とその幅は小さくなって、やがて動きを止めた。
そうして先の怒涛の夕立の名残は、地面からむっと立ち上がる湿気と、かすかに濡れた誾千代の毛先だけになる。それも仕舞いに消えるだろう。
丸くくり貫かれた視界に映る、実りの秋までにはまだ遠い、緑の影を濃くする木々の隙間。覗く空の色はどこまでも透明な茜の光に満ちていて、突然の雨に濡れた女童のことなど、すっぱり忘れてしまったようだった。
腹が減ったな、と誾千代は思った。
夏至が過ぎたばかりの今時分、空は大層明るいが、もう酉から戌の刻に変わっているだろうか。
普段なら夕餉を平らげている時刻だが、今日は朝餉からこっち、何も腹には入れていないのだから、当然だった。空腹ごときなにものぞ、と威勢良く胸を張りたいところだったが、そんなことを思うだけで情けなくなってきて、たまらずうな垂れた。
誾千代は今、ぶなの木の「うろ」に座り込んでいる。
「うろ」といっても、誾千代が悠々と収まってしまうほどなのだから、並の大きさではない。
おそらくかつては、天を突くほどの高さと、大人三人ほどでようやく囲めるくらいの太さがあったのだろうが、いつの頃か、地上から六・七尺のところでぽきりと折れた。そこにささやかな草が萌え、菫が咲き、蔦が絡み、小さな獣達が釣られるように戯れ始めたころ、誾千代はここを見つけた。
中は簡単な洞のようになっていて、しっかとした幹の壁と柔らかな土の床で固められている。入り口も大きいが、傍目より広さも深さもあって、寝転べなくても足は伸べられたし、立てばかろうじて鼻先まで出るかどうかという高さがあった。だから一旦入り込んでしまうと出るのも一苦労だったが、代わりに外からはほとんど見えない。そこが気に入っていた。
誾千代は、かねてよりこの山の城の主であるからして、同年の童たちほど自由な時間があるわけではなかったが、本朝の姫君ほど雅やかで窮屈な生活でもなかったから、屋敷の外にはよく出歩いた。そうして見つけた気に入りの場所はいくつもあったが、ここは格別だった。だから家臣たちにも侍女たちにも、大好きな父にだって言ったことはなかった。
言わずにいて、良かったと思う。誰にも見つからないであろう場所が、今ほど必要な時はないだろうから。
目下、誾千代は出奔中なのだ。
といっても、たかだか一刻半ほどであるが。
事の始まりは、漠然と、しかし爆発的に沸き起こった感情だった。
(面白くない)
何が、誰が、というわけではない。どうしてという理由など、問われても誾千代には分からない。面白くないとしか言いようのない気持ちでいっぱいなのだということを、どう説明すればよいのかも分からなかった。
前後の脈略などすっかり忘れてしまったが、とにかく非常に面白くないことを、一の家臣に言われた。端者に言われれば受け流す程度はできたであろうが、家中で重きを成す者に言われたことが、誾千代の勘に触ったのだ。
そしてそれに続いた、大げさなほどの呆れ顔で吐かれた「また、そんな癇癪を」という言葉が、たいそういけなかった。
気が付けば誾千代は、かろうじて草履をつっかけた格好のまま、屋敷の外に飛び出していた。胸いっぱいの、泣き出したいような熱い悔しさの前には、背中に届く侍女達の騒然とした声など、気にもならなかった。近頃増えた、もう一人の「この山の城の主」には、ついぞ出会わなかった。
そして結局、誾千代はもうずっと、ここで膝を抱えて蹲っている。
横にならないのは、単に「うろ」の幅が手足を延べるほどはないからであって、正直、このまま眠ってしまいたいくらいだ。
勢い込んでここに飛び込んだはいいものの、一頻り時間が経ってしまえば、目の裏いっぱいを熱くするような気持ちは萎えてしまった。
喉が渇いた。腹も減った。一ところに下ろしたままの尻は痛くて、揃えた膝頭の上で組んだ腕は、とうに痺れて固くなっている。
意地になって下唇を噛むと、目じりがじわりと熱くなる。慌てて視線を上にやるが、今日は新月だっただろうか、煌々とした月の姿はない。
代わりに、先ほどよりも幾分か濃くなった葉陰の先に、ぱらぱらと小さな輝きが見えはじめていた。夜が、近づいていた。
(・・・どう、しよう)
怖いとか恐ろしいとか、そういう切羽詰まったものではなくて、有り体に言えば心細さのようなものが、きゅっとこみ上げてくる。
最も良いのは、誰かが見つけてくれることだ。実際、これまでに二度ほど、近くを人が通った気配がした。躊躇いがちに歩を止めては進む足音は明らかに何かを探す風で、自分を見つけに来た何者かであったはずだ。
けれど、結局誾千代は表に出なかった。
のこのこと物陰から出て助けを求める己の姿など、いかにも恥ずかしくて情けなくて、耐えられなかったのだ。そんなことを気にしている場合ではないと百も承知しているが、その度に、先の家臣の嘆息と呆れ顔がちらついて、心の芯を頑なにさせた。
―誰かが「お願いだから、帰りましょう」と言ってくれれば、不承不承、という態度で応じる。かくて誾千代の誇りは守られる。そんな都合の良い展開を待っている間に、こんな時間になってしまった。
(このまま、日が落ちるのだろうか)
父の昨今の話しぶりからして、どこぞの軍勢が今にも攻めてくるようなことはないだろう。害獣の類も、城の者達がよくよく注意しているから心配ないことも知っている。
しかし例えば夜を過ぎて、また朝日が昇っても、誰も来なかったらどうしようか。・・・誰かが来るまで、ここで暮らさねばならないのだろうか。
体をぎゅっと縮め込ませて、懸命に考える。沢はどのくらい先にあっただろう。米はないから、木の実で腹を満たすしかない。嵐が来たら、野狼に遭ったら、戦になったら。
(どう、しよう)
色々な思案が混ざり合って、ふたたび目じりが熱くなった。
その時、こつんと、小さな何かが頭を叩いた。
反射的に顔を上げるが、「うろ」の外に見えるのは、一層深みを増した夜の色ばかりだ。いぶかしんで周囲を見やれば、小さな丸みが足先に転がっている。ほどよく赤に色付いた李だ。
恐る恐る、袖で拭いて、一口齧る。つんと差すような甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がって、知らず体がふるりと揺れた。喉の渇きと空腹とに染み渡るその味は、今まで食した李のどれより美味かった。
すると今度は、足の小指に同じような固い感触が落ちてきた。
今度こそと見上げれば、小さな影が「うろ」の縁っちぺりで揺れている。米粒ほどの耳をぴんと立て、しきりと周囲を気にするような独特の動き。栗鼠だ。
彼はまるで誾千代が李を食べたことを確認するように、甲高く愛らしい鳴き声を二度ほど上げると、ふたたびせわしなくと体を揺すぶって、「うろ」より向こうに駆け出した。
「待って」
とにかく自分以外の何者かが生きて動いていることに感動して、そして単純に、ものを口にしたことで気力が沸いた。思わず腰を上げて、夢中で小さい恩人に手を伸べる。大きな尻尾を追うように、体制を崩しながらも精一杯に肘を伸ばし、「うろ」の外まで届くように。
と、指先が、ふいに強く捕われる。想像だにしなかったその力に驚愕し、慌てて手を引こうとしたがもう遅い。問答無用とばかりにぐいぐいと引き上げられる恐ろしさに、誾千代は思わず叫んだ。
「は、離せ!無礼者!」
すると今度は言ったが早いか、ぱっと離されたものだから、反動で誾千代の体は勢い良く傾ぎ、したたかに背と尻を打ちつけた。その痛みに声も出ない誾千代をよそに、いたって暢気な声が頭上から降ってくる。
「いた」
視界にひょっこりと顔を出した宗茂は、ぱらぱらと散らばる星を背に、心底不思議そうにこちらを覗き込んでいた。
「面白いところにいるな、お前」
「・・・」
「俺も行こう」
え、と思う間もなく、宗茂は「うろ」の縁に手をかけて降りてきた。空いていた誾千代の右側に難なく床に足を付けて、きょろきょろと見渡す。誾千代より少しばかり背が高いから、頭を打たないように気をつけているのが癪だった。
「ちょっと狭いが、高さもあるのか」
一人で満足したふうな宗茂は、まるで自分の方がここに居ついていたといわんばかりの悠々さで、のんびりと座る。
「これはいいな」
そう言われてしまえば、尻餅をついた格好で呆気にとられていた誾千代は、そのまま憮然として膝を抱えるしかなかった。先よりもずっと窮屈になった「うろ」の息苦しさに、ふざけるなとか、そもそもどうしてここにいるのかとか、言いたい言葉は山ほどあったが、それを言われるべきは己なのだということを自覚しているから、押し黙るほかない。
そうしてぐっと身を固くした誾千代に、何の気なしにといった具合でするりと差し出された、竹筒。
はっとして宗茂を見ると、小さく笑っていた。
「見つけたら渡せって」
受け取ると、ずしりと重い。それは誾千代が遠出の際には常に携帯している水筒で、上蓋に付いている栓は器用にも先が珠の形をしており、花の意匠が小さく掘り込まれていた。立場上、武張った所持品が多くなる誾千代にせめて女子らしいものをと、侍女たちが相談して、特別に誂えたものだった。
そろそろと蓋を開け、飲み口に唇を付けて傾ける。するりと口内に流れてくるのは、冷えすぎていない水に少しの甘蔓と一つまみの塩を混ぜたもので、これも侍女たちが、暑いさなかにも鍛錬を欠かさない誾千代が倒れないようにと持たせてくれる、この時期に特別ものだ。一口、二口と喉を通るたびに、意固地な気持ちがほろほろと解けていくようだ。
同時に、申し訳なさが、わっと押し寄せる。
きっと今頃、皆は青ざめた顔をして、自分を探しているのだろう。誾千代に当然の注意をした家臣は、何も悪くない己を責めているかもしれない。父は、どんな気持ちで娘の帰還を待っているのだろう。
目じりに溜まった後悔が、雫になる直前だった。
「さっき、何をしていたんだ」
唐突に宗茂が聞いてきた。思わず引っ込んだ涙を溜めたまま振り向くと、宗茂は右腕をぐいと伸ばし、こう、と身振りで示している。
「手を伸ばしていただろう」
そこは勿論誾千代の意地で、栗鼠を捕まえたくて、と言えるわけもない。しかし、ただでさえ泣きたい気持ちで胸がいっぱいなのに、他に巧い言い訳も見つかるわけもなく、誾千代は水筒を抱える力をなお強くして俯き、放っておいてくれと、体全体で訴えた。
宗茂がその行動をどう思ったのかは知らないが、ただ相手が答える気がないというのは理解したようだ。するとしばらくして、今度はあちらこちらを覗き込んだり触ったり、立ったり屈んだりと落ち着きがなくなった。放っておこうと思いながらも、一人ならばまだしも、二人も納まれば当然狭いこの「うろ」のこと、我慢の限界はすぐに訪れた。
(何をしにきたのだこいつは!)
腹が立った。そもそもこんな事態になったのはぜんたい自分のせいだということは棚に上げて、誾千代は苛立った。
「少しはおちつ・・・」
「なるほど」
渾身の抗議を寸止めされた誾千代が顔を上げた時には、いつの間にそうしていたのだろう、宗茂は「うろ」の縁に半身を跨いで、空を仰いでいた。縁の天辺に頭をぶつけないようにしているから、少し窮屈そうだ。
そうして、ほら、と「こちら側」に残したままの腕を伸べて、またもや想定外の光景に出くわして呆けている誾千代の腕を、強引に取った。水筒を落とさないようにするのがやっとで、ほとほと混乱しきっていた誾千代が抗う余裕もないままずるずると引き上げられれば、ちょうど宗茂と縁っぺりで向かい合うような格好になっていた。
夏の夜の、むっとするような緑の匂いが、急に濃くなる。
顰めた顔のまま、取りあえず、とばかりにきつく睨んだ誾千代の視線を笑顔で受け流し、宗茂はおもむろに腕を伸ばした。釣られて見上げた、その先。
一面に広がる、白銀の川があった。
いつしか濃紺となっていた新月の夜空に、広大な天の川が横たわっている。
眩いほどに明るい煌きも、穏やかで慎ましい輝きもひところに、時に靄を上げながら、まれに青白い璧を瞬かせながら、滔々と川は流れる。
「下からだと、よく見えないからな。手も届かない」
ゆらゆらと左の腕を振りながら、宗茂は勝手に納得したように言った。そして、今日は天の川が明るいから、月が無くても夜道には困らなかったと言われて初めて、誾千代は、思っていたよりもずっと夜空が明るいということに気がついた。
「うろ」の縁に切り取られた空には、川はなかった。跳ねあげられた微かな飛沫の星々だけが、辛うじて見えていたのに過ぎなかった。この広大な空のうち、本当に小さく切り取ったものだけが、あの「うろ」から見える全てだったのだ。
のろのろと、倣うように右腕を上げる。宗茂よりほんの少し長さの足りない己のそれは、しかし確かに先ほどよりも、ずっと何かに届きそうな気がした。
「細いな」
「え」
「誾千代の腕」
「・・・お前の腕もな」
「そうだな」
ちょうど川に平行するように連なる二本の腕は、天の流れに比すことも憚られるほど細く、頼りない。
「でも、すぐに大きくなる」
言って宗茂は、ぐっと拳を握った。ほんの少しだけ、幅が広くなる。
「このままで務まるほど、立花の家は軽くない」
「当たり前だ!」
誾千代は思わず声を荒げ、宗茂に食って掛かった。そんなことを言われる筋合いはない。宗茂よりもずっと長い間、物心ついた時から、その名の重さと大切さを身に引き受けて生きてきたのは己なのだ。
「立花は、強く、誇り高いのだ!この川よりも、もっと、もっと大きくなるくらいでなければ務まらん!」
いつだってそう思っている。思ってはいるのだ。
けれどまだ自分は幼くて、自分の身の振りようすら、父を初めとする大人たちと、何もかも同じというわけにはいかないのが歯がゆかった。
感情が昂ぶるような時はぐっと堪えて、つまらない癇癪だと指摘されたのなら、それを素直に認め、態度を改めるべきだ。ましてや自侭に飛び出して多くの者に心配と迷惑をかけるなど、言語道断だと分かっているのだ。分かっているのに出来ない自分は、何と未熟なのだろう。日ごろ自分を立ててくれる者達の親愛を思うと、己の浅はかさが情けなかった。悄然とした心持になって、誾千代は俯いた。
「・・・分かってるなら、いい」
萎えるように落とされた誾千代の腕を小さく小突きながら、宗茂は言う。
「ま、とりあえず早く帰って、夕餉を腹いっぱい食え」
「・・・は?」
「俺はもう食った。つまり、お前よりちょっと大きくなっているというわけだ」
途端、誾千代の腹の虫が、呼応するかのように盛大に鳴った。
「!!」
「ほらみろ」
ただでさえ恥ずかしさでどうにかなりそうだった誾千代は、宗茂の、心底小馬鹿にしたような揶揄にたまらなくなって、その場からいっさんに駆け出した。ふざけるな、馬鹿、死ね、と心の中で悪態をつきながら、さっきまではあんなに重かった体が、風のように軽くなっていくのを感じていた。
「ついでに、精々叱られてこい。・・・皆、心配していたぞ」
背中から掛けられる声が思いのほか柔らかくて、今度こそ誾千代は、山道を駆け上りながら、小さく泣いた。
城へと続く帰り道は、絶え間なく瞬く星の煌きに、明るく照らされていた。
腕を掲げる。まだ足りない。
もう片方、掲げてみる。やはり、まだ足りない。
変わらずに訪れる初夏の新月の夜、煌々と横たわる天の川を見上げながら、誾千代は一人、小さく笑う。
「心配などと言ったのは、どの口だ」
当の本人は随分と時が過ぎた今、あの騒動よりも遥かに大きな規模で家出をしている。見聞を広めるためという理由に偽りはないようで、聞いたこともないような名の土地から、ひどく変わった紙と墨で書かれた文やら、使い方はおろか天地の方向も分からない品物やらを寄越してくるが、一向に帰還するという報は入ってこない。
(今ごろ、どこをほっつき歩いているのやら)
事の起こった時分はさすがに気を揉んだが、揉んだところでどうにもなるわけもないということに半年で気がつき、もう半年ほども経った今、誾千代は唐突にあの日のことを思い出した。
あらためて、己の腕を見る。
誾千代のそれは、大きくなった。女の腕ゆえ限りはあるが、鍛え上げた靭さへの自信は揺ぎない。
宗茂のそれもまた、大きくなった。秀麗な造形はそのままに、その強さはいまや西国無双と称されるほどだ。
立花の名と誇りは今確かに、自分と宗茂が守り、支えている。自分たちの二腕が揃って並べば、今に天の川にも届くだろうか。
しかし、天は広い。
あの日「うろ」の中で見た空がほんの一欠片であったように、天の川はもっともっと、遠く広く広がっているのかもしれない。
であるならば。
それを補う術を、これからも二人して見つけてゆくのだろう。例えひととき離れていても、今までもこれからも、そうやって自分たちは、この名と共に生きてゆくのだ。
―けれど、たまには。
「・・・精々、叱られに帰ってこい。皆、心配しているぞ」
その響きに柔らかさが混じることの理由を、今の誾千代は知っていた。
滔々と、川は流れる。
ふいに伸ばした爪先が、彼方の水面に届いた気がした。
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熱中症対策にポカリはよく聞きますが、薄い砂糖水に塩一つまみで代用可能だそうです。
(これからの季節に役立ちそうなそうでもないような豆知識)