何となく思いついた小噺を。
元就じぃじと猫を書いているときの、自分の満たされっぷりが半端ないです。
耳に心地のよい雨音がして、元就は目を覚ました。
どうやらほんの少しだが、転寝をしていたようだ。無意識に伏していた文机からうっそりと顔を上げると、雨の幔幕に覆われている庭が広がっていた。
今年の梅雨は、常より幾分か早足でこの伏見に訪れていて、書物の大敵である湿気と格闘する元就をからかうように、しっかと居ついている。先ほどまでは、どうにか保ちそうな塩梅であったが、そこはやはり季節柄、一雨きたようだ。
いやだねぇ、と未だ茫漠とした意識のままに呟くと、ひょい、と庭へと続く縁側に現れ出たものがある。
白くて小さな、獣の足。
次の瞬間、するりと音もなく這い上がってきたのは元就の飼い猫で、でっぷりとした体躯からはちょっと想像しがたいほどの器用な仕草で、ぶるりとひとたび体を震わせると、途端にそこらじゅうに飛沫が散った。
「ああぁ、こらこら」
居室の限界まで書を積み上げている元就である。うっかりこの不届き者の侵入を許してしまえば、大事な老後の楽しみに影響が出かねない。
そうして慌てて文机を跨いでみれば、足先にあった漢籍を踏みつけそうになり、避けようと体を捻れば、途端にとと、とたたらを踏んだ。
何とか堪えた元就は、安堵のため息を吐きながら、せめて街道くらいは作っておくべきだったと思う。
そのくせ、ならば整理をせよという、孫や家臣、ついでに先ごろ増えた歳若い友人たちからの指摘を曖昧に流してしまうくらいには、元就のものぐさ癖は強固なのだから始末に悪い。
因みに元就は、この乱雑そのものといった部屋のどこに何其れあって、内容はこれこれでと、正確にその全てを把握している。それゆえ、実用面では一切困ったことは無かったし、うっかり他人に整理されようものなら、却って混乱するのである。
以上をもって、一旦は整理は不要という主張をしたのだが、衛生面と怪我の危険性、ついでに見目の見苦しさという、真にもっともな理由で却下されて以来、「まあぼちぼちね」という曖昧な意思表示で、のらりくらりと過ごしているという次第である。
そんな騒がしい主人を構う風もなく、猫がにゃあん、とか細く鳴くので、元就ははいはいと相づちを打ちながら、目当てのものを探す。
「全く、これじゃどっちがご主人さまなんだか」
それでも見つけた手拭いを広げ、大人しくするんだよ、と猫を抱えながら縁側に座り込む元就の顔は至極幸福そうなもので、大層な好々爺ぶりだった。
「どうしたかなぁ」
足先を拭いているのか、それともただ単に肉球の弄っているだけなのかという仕草のまま、元就は先ほどまでこの部屋を訪なっていた、若い二人の友人のことを思い出す。
友人とは、立花家の若い当主夫婦である。当主の夫婦ではなく、夫婦の当主であるのだから、まったく世の中というものは面白いものだ。
「特にどうといった用向きがあるわけでもないのですが、顔を見に」
と、常も変わらぬ端正な微笑とともに言ったのは夫の宗茂で、
「老体の関節に湿気は禁物だからな。貴様がぐうたらしておらぬか、確認に来た」
と、やはり相変わらずの謹厳な顔で、無礼と親切を器用に混ぜた見舞いをしてくれたのは、妻の誾千代だった。
そんな二人と談笑し、少し政治向きの話などもしつつ、ついには飽きた誾千代が猫と戯れ始めるに至って、頃合に寺鐘が鳴った。
もうそんな時間ですか、と腰を浮かした宗茂に呼ばれれば誾千代も不承不承暇を告げて-この見た目と口調が際立って厳つい女性は、反比例するように女性的な、言ってしまえば愛玩動物にてんで弱い感性の持ち主である-、そうして元就は玄関先まで、二人を見送りに出た。
その時、おや、と元就が首を捻った光景がある。
上がり框で草鞋の緒を結び終えて立ち上がった誾千代に、訪問時に預けておいたのだろう、恭しく元就の家の下人が差し出したのは、一本の番傘であった。
大層立派な、というより、立派過ぎてとても女性の所持品には見えない、黒漆の見事な番傘である。女だてらに男顔負けに剣を振るう誾千代に、似つかわしいといえば、まあ似つかわしいかもしれないが。
「準備万端だね」
「当然だ。立花たるもの、不測の事態にも備えねばな」
元就が関心したふうに言えば、誾千代は誇らしげに胸を張る。うんうん、と彼女の返答に応えながら元就は、いま少し違うことを考えていた。
(じゃあ、何で旦那さんは持っていないんだろうね)
そう思って宗茂を見やる。
その意味ありげな視線に気づいたのだろう、そこは西国無双の名も聞こえ高い、当代きっての駿才である。誾千代の半歩後ろに立つ宗茂は、
「元就公」
と、また見事な笑顔で笑って、元就の無言の問いに応えた。
―なるほどね。
おどけるように肩を竦めてみせると、宗茂もあわせるように肩を竦めた。
そしてそんな二人を置いたまま、すたすたと門に向かっている誾千代の背をちらりと見やりながら、宗茂は殊更小さく呟いたのだ。
「こう見えて、俺は奥手なんですよ」
「ああ、そのようだ」
元就が笑いもしないで言った言葉に小さく苦笑し、しかし次の瞬間にはいつもの晴れやかな笑顔を掃いて、それでは失礼いたします、と綺麗な型の辞儀をして、宗茂は毛利邸を辞去した。
盛りを過ぎようとする卯の花の垣根の先に見える彼らの後姿は、すぐに見えなくなった。
よくもやったものだ、と元就はしみじみと思う。
おおかた上手いこと彼女の自尊心をくすぐって、事を運んだに違いない。
確かに大した遠出でもない以上、備えの品を二人して抱えて歩くこともない。番傘の武骨な威容も、もし実際に雨が降れば二人で共有できるようにということで、十分理にかなっている。
ではそんな厳ついものを、なぜ女性である誾千代に持たせているのかといえば、それはもう、相手が誾千代だからとしか言いようがない。
よしんば宗茂が持つと言えば対抗して、自分ももう一本持っていくと言い張るに決まっているのだ。
「それじゃ、意味がないんだよね」
元就は雨に霞む空を見上げて、小さく笑う。
妻と一つの傘に入って往来を歩きたいという、何とも慎ましい男の願いを、果たして天は聞き届けたのだろうか。
いやいや風神の異名を持つ宗茂のこと、雨雲を招来したのかもしれないが、それはそれ。
元就は、普段よりも幾分か寄り添って、華も何もない、真っ黒な番傘に収まる二人の後姿を思い描いた。
そして、もしかしたら誾千代がいつもの意地を張って、自分よりもずっと上背のある宗茂に合わせるためにと、必死に腕を振り上げている様を想像するに至って、ますます目じりの皺を深くする。
「若いっていいねぇ」
ねぇ、と胡坐の上にどっしりと居座っている猫を覗き込めば、主人の話など聞いてもいなかったのだろう、まだほんのりと湿る耳を、ぴんと僅かに揺らすのみである。
そんなつれない仕草にめげるふうもなく、元就はのんびりとその鼻先などを撫でてやるのだった。
梅雨の日はもう暮れかかっていたが、さらさらと響く雨音は、もうしばらく止みそうにない。
-----------------------------------------------------
おじいちゃんって何でいつも手拭い(orタオル)を持っているんだろう、と思ってました。うちのじいちゃんだけかもだけど…。